2006年度1学期後期「実践的知識・共有知・相互知識」    入江幸男

第11回講義 (June 27. 2006

 

§6 共有知の存在証明

 

1、従来の議論の限界

従来の議論は、知や想定をもつものが個人であるということ、言い換えると、知や想定が本来的に個人的なものであるということを前提していた。そこからどのようにして、共同の知や想定が構成されるのかを説明しようとしたのである。それは、認識論的個人主義を出発的にして、そこから認識の共同性を説明しようとするものである。これは、認識論的個人主義を厳密に考える限り、不可能であるように思われる。その失敗の事例は、現象学の相互主観性論に見られる。

 

2、共有知の想定は可能である。

(1)共有知の想定は、我々の脳が考えるという事実と矛盾する。

ここでいう「共有知」とは、複数の人間が共有している数的に一つの知である。しかし、我々の脳が考えるのだとすれば、複数の異なる脳が、どのようにして数的に一つの知を共有することができるのだろうか。我々の脳が考えるのであり、脳の中にその働きとして(あるいはその働きの産物として、あるいは働きに一対一対応するものとして)知が存在するのだとすると、複数の脳が知を共有するということは矛盾する。

そこからの帰結は、「共有知」概念を捨てるか、脳が外的対象を知覚し思考しているという考えを捨てるかである。後者は、とっぴな考えではない。たとえば、生態学的心理学を主張するギブソンは、そのように考えている。後者は、対象を知覚したり、思考したりするときに、脳が必要ない、と主張するものではない。知覚や思考が脳の作用であるとか、脳の作用に付随する(supervene)と考えることを否定するだけである。

 

(2)科学的に考えて、認識論的独我論と存在論的複数自我論は両立可能か?

他者との対話において科学的には、脳が考え、発話していると考えられる。目や耳などの感覚器官をとおして、相手の声や動きの刺激をうけとり、それを脳で処理して知覚し、それを脳で言葉として解釈して、意味を理解し、・・・。このような説明では、知はあくまでも個別の脳の中に存在するものであり、一つの知を他者と共有するということは、不可能である。

ところで、このように考える科学者Sは、このような説明そのものもまた、彼の脳のなかの知であることを認める。しかし、科学者は、この説明が正しいと考えている。つまり、Sは、p<Sが他者Aと対話していることは、第一に物理現象であり、Sの脳の中の知であるのみならず、客観的な事実である>と考えている。しかし、このpもまたSの脳の中の知である。これは、以下同様に繰り返されるだろう。

<人間のあらゆる意識や知は、脳の中の作用あるいはその作用の付随現象(supervenience)としてのみ成立している>と考えるとき、この考えは、このように考える者の脳の中にある。この科学者が、ほかの人もまた私と同じように脳の中で考えているとかんが得るとき、彼はそれをどのようにして証明することができるだろうか。彼が証明を思いついたとしても、その証明は、彼の脳の中にある。彼は、脳から外に出てゆけない。

 逆に言うと、彼は、すべての意識や知が脳の作用ないし作用の付随現象であるということを、どのようにして証明することができるのだろうか。彼が、近未来の磁気共鳴装置をもちいて、被験者の思考(の報告)と脳の作用の対応関係を反復実証可能な形で確定できたとしよう。被験者が、「人間のあらゆる意識や知は、脳の中の作用あるいはその作用の付随現象(supervenience)としてのみ成立している」と考えたときに、脳がどのように作用するか、を科学者は予測することができ、またその予測が検証されたとしよう。脳学者のテーゼが正しいとすると、彼の証明は、彼の脳の中にあるに過ぎないことになる。つまり、彼のテーゼの証明は無効となる。(もちろん、もしテーゼの証明が原理的に不可能であるとしても、テーゼが真である可能性は残る。)

 

(パトナムの水槽の議論が、この問題にかかわってくるのではないだろうか。)

 

3、共有知の想定の必要性(あるいは不可避性)

フッサールが言うように、世界や対象や他者を構成的に総合する超越論的自我が複数存在しているのだと仮定してみよう。フッサールは、このような超越論的自我が複数存在していると考える。このような立場をかりに、「超越論的複数自我論」と呼ぶことにしよう。

しかし、他者が超越論的自我であるとしても、それは私にとってそのように構成されるに過ぎない。つまり<超越論的自我が複数存在している>ということもまた、超越論的自我による構成である。したがって、この後者の超越論的自我こそが、実在する超越論的自我である。他者たちである超越論的諸自我は、私が構成したものである。この立場を「超越論的独我論」(『デカルト的省察』§62)と呼ぶことにしよう。フッサールは、このような「超越論的独我論」になるという彼に対する批判に反論して、(彼の用語ではないが)「超越論的複数自我論」の立場をとろうとしている。

もし超越論的独我論が間違っているのだとすると、<上のような他の超越論的諸自我を構成している超越論的自我がさらに複数存在する>ということになる。しかし、これらの複数の超越論的自我が存在することもまた、超越論的自我によって構成された事実に過ぎないはずである。それゆえに、またしても「超越論的独我論」になってしまうのである。

そして、これは以下同様に無限に反復可能である。この無限の反復は、超越論的複数自我論と超越論的独我論の間をゆれつづけることを意味する。

 もし我々が、「超越論的独我論」も上述の無限の反復もとらないとすると、超越論的複数自我論を採用するしかないだろう。つまり、超越論的自我が複数存在することは、もはや超越論的自我による構成的総合なのではなくて、客観的事実であると、考えなくてはならない。この客観的事実は、どのようにして知られるのだろうか。それとも、それは単に想定されるだけなのだろうか。知にせよ、想定にせよ、その知や想定が超越論的自我によって行われるのであれば、ふたたび超越論的独我論に戻ってしまうだろう。したがって、これば超越論的自我によるのとは別の仕方で知られたり、想定されたりするのでなければならない。この知ないし想定が、個人による知や想定でないとすると、その知や想定は、個人を超えた共有知である可能性がある。

 

4、永井均の独我論との類似性

永井均の独我論に出てくる議論は、上の説明とよく似ているように思われる。ただし、この議論から引き出される結論は、正反対である。永井は彼の独我論(「独在論」とか「<私>の独我論」といわれる)を次のように説明していた。

 

「ぼくの問題はたとえば、ABCD、四人の子どもがいる(かりに四人とも男の子だとする)とき、ぼくがBであって、ACDではないことにあった。Bである僕が反省意識によって自我を発見できるか、なんてことはどうでもよかった。もしそんな自我なんてものがあるなら、他人にもあるだろう。そうなればまた、ぼくの自我と他人の自我のちがい(つまり、ぼくの自我の特別さ)が問題になる。その特別さは「ぼくの自我」の「自我」の方にあるのではなく「ぼくの」の方にあるはずだ。その「ぼく」とはいったい何なのだ? この問にふたたび「自我」を持ち出してこたえることは、もうできない。」(永井均『子供の哲学』講談社現代新書p.49

 

 

{ Bである僕が反省意識によって自我を発見できるか、なんてことはどうでもよかった。」とあるが、「Bであるぼくが反省意識によって自我を発見できるか」という問題は、永井のいう<私>の問題とも関係することになると思われる。これについては、

フィヒテをもとに、後期に議論したい。}

 

「認識論的な独我論が、複数化されて普遍的な独我論になるのと同じように、<奇跡>や<物種>の独我論も、複数化され普遍的な独我論に変わる。すべての「ぼく」が<ぼく>になる。それなら、世界は、平等に<ぼく>である無数の単独者たちからできているだけなのか。その中で、この<ぼく>が他のやつらとは違っていることはどうあらわされるのか。」(同書、94

 

「はじめ、ぼくはABCDという四人の人間について考えていた。それぞれが固有の性質を持ち、脱人格的な自己意識をもつ。でも、それだけではこのぼくの存在の特殊性は出てこない。それをどう説明したらいいのか。これが問題だった。そこで、ぼくは、B(永井均)という人間でもなく、彼のもつ脱人格的自己意識でもない、彼をこのぼくたらしめている何かプラス・アルファの存在を考えた。

 しかし、この思考は個別化された脱人格的自我(各人のもつ、しかし各人から離脱可能な、世界の物種としての「魂」)にしか行き着かなかった。このぼくの特別さはでてこなかった。そこで、ぼくは「世界」を複数化し、そのうちのひとつの特別さの意味を考えることにした。

 この思考過程には、いつも、一般的な概念の単なる一事例ではない(単なる一事例には尽きない)ものをとらえようとする志向がともなっていた。」(同書、97

 

「だが「その概念が当てはまる、そのひとつの実例であることには尽きない(単なる一事例なら他にいくらでもあるのだから)」というこの言い方は、それ自体、ふたたび、だれにでもあてはまることではないか。つまり、この種の発言を聞いて、まったくそのとおり!と賛成する他者が、ここでもまた、出てくるにちがいないのだ。」(同書、97

 

 「このような過程は永遠につづき、われわれはこの構造をこえることはできないだろう。言葉のやりとりによって通じ合う我々の世界を、ウィトゲンシュタインにならって「言語ゲーム」と呼ぶなら、「言語ゲーム」とはまさしくそのような構造をもった場所、つまりこのような読み換えが無限になされる場所のことなのである。そのことによって、世界の独在的本質が消えてなくなるわけではない。しかし、それは世界の中にはけっして現れず、それについて人と語り合うことはけっしてできないのだ。」(同書、98

 

 

  視点 A

   

世界A人間 A B C D 

世界B人間 A B C D 

世界C人間 A B C D 

世界D人間 A B C D 

 

 

 

 

  視点 B

   

世界A人間 A B C D 

世界B人間 A B C D 

世界C人間 A B C D 

世界D人間 A B C D 

 

 

 

  視点 C

   

世界A人間 A B C D 

世界B人間 A B C D 

世界C人間 A B C D 

世界D人間 A B C D 

 

 

 

  視点 D

   

世界A人間 A B C D 

世界B人間 A B C D 

世界C人間 A B C D 

世界D人間 A B C D 

 

 

 

永井氏の立場は、この思考過程を繰り返すという立場である。彼は、この繰り返しをどこかで中止して、<私だけが特別は世界(ないし視点、ないしその他そのようなもの)が存在する世界だけがある>という立場を主張するのではない。もしこの思考過程をどこかで中止するのならば、普通の存在論的独我論になるだろう。

ところで、この思考過程を繰り返すということは、<私>のかけがえのなさを示したとたんに、「まったくそのとおり」と語る他者が出現する可能性を認めるということである。しかし、このような可能性を認めるということは、<私>のかけがえのなさが普遍的なものであることを認めることである。

問題は、「永井氏は、「まったくそのとおり」と語る他者が出現する可能性をなぜ認めるのか」あるいは、「なぜ永井氏は、普通の存在論的な独我論を主張しないのか」「永井氏は、どのようにして普通の存在論的独我論を否定するか」ということかもしれない。

 

ところで、この思考過程を繰り返すことは、上の議論では、超越論的複数自我論と超越論的独我論の間をゆれ続けることである。それは、整合的な立場だとはいえないだろう。ただし、二つの立場をゆれ続けるということは、人間のあり方としては、しばしば見られることである。